
ハーバード大学コンピュータサイエンス 教授
現代社会は、インターネット、人工知能(AI)、ビッグデータなどの技術革新によって、経済活動や社会生活のあらゆる側面がサイバー空間に依存する「デジタル社会」へと急速に移行している。この進展は利便性と効率性を飛躍的に高める一方で、個人情報の漏洩や監視、AIによる差別的判断、アルゴリズムによる市場支配など、倫理的・社会的な課題を深刻化させている。とりわけ、プライバシーの侵害やサイバー空間の公益性の低下は、本来社会全体が享受すべき利益が一部の企業や国家に偏り、資本主義経済の構造的歪みを生じている。近年では、生成AIに代表される革新的技術がこの問題を一層顕在化させ、情報の偏在、倫理的責任の所在、社会的公正の担保など、従来の法制度や倫理基準では解決しがたい新たな課題を突きつけている。
このような状況において、デジタル社会の信頼性と公平性を支えるためには、倫理的・法的な枠組みに加えて、複雑な情報システムの振る舞いやその社会的影響を数理的に定量化し、制御可能とする理論的基盤が不可欠である。シンシア・ドワーク博士は、まさにこの課題に対して数学的に厳密な枠組みを構築し、プライバシー保護、公平性、分散的信頼の原理を数理的に定式化することで、デジタル社会における倫理的問題を科学的に扱う新しい学問領域を切り拓いた。その成果は、技術革新のもたらす外部不経済を是正し、社会の公益と経済合理性を両立させるための基礎理論として、極めて大きな意義を有している。
博士は、デジタル社会における倫理的課題に対して、数学的に精緻な理論枠組みを構築することで、全く新しい学問領域を切り拓く決定的な貢献を果たしてきた。特に、2006年に提案した「差分プライバシー(Differential Privacy)」は、ビッグデータ時代における個人情報保護のあり方を根本から変えた画期的な概念である。差分プライバシーとは、データ分析の結果が、特定の個人のデータを含むかどうかでほとんど変わらないことを保証する、プライバシー保護のための数理的定義である。この理論の核心は、統計データの公開が個人のプライバシー保護に及ぼすリスクを定量的に評価する尺度を数学的に定義した点にあり、これによってデータ活用の有用性とプライバシー保護との間のトレードオフが厳密に定式化された。さらに、統計的な「ゆらぎ」を意図的に加えるなど、保護水準に応じた具体的な統計処理手法も提示され、今日では学術界および産業界を通じて確立された基盤理論となっている。差分プライバシーは、Apple、Google、Meta、Microsoft、NTTドコモなど世界の主要IT企業に導入され、米国の2020年国勢調査にも採用された。これにより、利用者のプライバシーを守りながら、企業や行政が社会に必要な統計情報を安全に取得することが可能となった。
さらに博士は、1992年の時点で迷惑メール(スパム)の氾濫を予見し、それを防ぐための革新的な仕組みとして、計算作業を通じてメール送信にコストを課す概念を提案した。この「Proof of Work(PoW)」とは、ある行為(たとえばメール送信や取引記録)を実行するために一定の計算作業を要求する仕組みであり、経済的コストを発生させることでスパムなどの大量送信を抑制するものである。このアイデアは後に、2009年に登場したブロックチェーン(改ざん困難な分散型台帳技術)に採用され、暗号資産などの基盤となった。これにより、特定の中央管理者を介さずに信頼できる取引を実現する民主的な情報共有システムの成立に貢献した。
また博士は、2011年に「アルゴリズムの公平性(Fairness through Awareness)」という新たな視点を提唱し、人工知能(AI)によって生じうる倫理的な偏りの問題に早期から理論的に取り組んだ。アルゴリズムの公平性とは、AIが人種・性別・年齢などの属性によって社会的に妥当でない判断を下さないよう、その公平性を数理的に定義し、保証するための枠組みである。さらに博士は、暗号の安全性概念を精緻化し、暗号文の改変に対する耐性を理論的に定式化することで、暗号通信の安全性をより厳密に保証する枠組みを確立した。これらの研究は、IT技術の発展に伴って生じる社会的・倫理的なリスクを先取りし、社会に深刻な影響が及ぶ前に、数理科学に基づいた理論的解決策を提示してきた点で特筆に値する。
博士の理論的成果は抽象的な思索にとどまらず、社会的ニーズに応える形で実際の技術や製品に応用されてきた。差分プライバシーをはじめとする博士の研究は、市民一人ひとりのプライバシーと安全を守るとともに、世界的な情報基盤や経済システムの信頼性を支える中核理論として機能している。また、サイバー空間における経済活動やアルゴリズムの運用に潜むリスクを可視化し、その影響を科学的に定量化して制御する方法を示した点でも先駆的である。このように博士の研究は、現在および将来のデジタル社会が直面する深刻な課題に対して、理論と実践の両面から数学に基づく決定的な解決策を提示し、学術的にも社会的にも堅固な基盤を築いた。
以上より、シンシア・ドワーク博士の功績は、「エレクトロニクス、情報、通信」分野における卓越した貢献として、2026年日本国際賞にふさわしいものである。